「人はそれぞれ事情をかかえ 平然と生きている」
京田辺市にある kinco-ya cafe に書かれていた言葉
人はいろんな事情を抱えていても表向きは平然と生きていたりする
「死にたい」「生きているのが辛い」「消えてしまいたい」そう思うことってありませんか?
私はあります。ヨガの先生やっているけれどあります。
辛くて「消えたい」と思っていた時はこのとき↓
その後ヨガを学び始めてずいぶんと生きやすくなりました。あんなに「消えたい」って思っていたけれどこの世界から自分が居なくなることが怖いと感じるようになりました。
居なくなるのが怖いのではなく、体験できなくなることが怖く感じているという方が正しいかな。
【死】とは古くなった洋服を着替えるのと同じようなものだと頭ではわかっていても、情報として頭にあるだけで本当の意味では理解できていないからやっぱり死ぬのは怖い。(痛いとかしんどいとかも嫌)
怖いって思っているのにたまに理由もなく「消えたい」って思うときがある。これは本心なんかじゃなくて、体調とかホルモンのバランスのせい。
「消えたい」「消えたい」と思い続けていた時の残像が出てくる。
死にたいって気持ちを否定されたらその気持ちはどこにいくのだろう
自ら生を断つことを選んだ人が、誰かの助けを求められたらよかったのにって思う気持ちもわかるし、私も思う。
「死にたい」って自分の気持ちを伝えることで、どれだけ相手の心を傷つけ悲しい想いをさせるのかということを想像すると言えない気持ちもわかる。(実際自分が死ぬことでもっと悲しい想いをさせるのだけれど)
「死にたいほど辛い」と告げた時に「死にたいなんて言わないで」と言われたら…死にたいほど辛い気持ちはどこにいくのだろう。
「死なないで!」きっとそう言われるに違いない。絶対でなくとも言われる可能性は高い。
実際に私は「死にたいんじゃなくて消えたい」と思っていたけれど、こんなことを思うことは「悪い」ことだと感じていたし、口にすると周りを悲しませると思っていた。口にしたら「そんなこと言わないで」って言われたし、「そうだよね。言ってほしくないよね」って思った。
そうすると自分の気持ちを内に秘め、平然と生きていくしかない。
だから私は「自らの生を断つ」という実際の行為と「死にたいほど辛い。もう終わりにしたい」という気持ちとを別にしてその思いを受け止めたい。
理由もなく消えたくなるとき
死は悪いことではない。誰にでも必ず訪れる。
死ぬという選択がなぜ生きている私たちに可能なのだろうか。生きることが死ぬことよりもはるかに辛いことであっても死を選ぶべきではないのだろうか。
私たちは生きることも死ぬことも選ぶことができる。選べるから生きることを選ぶ。
多くの人はただ生き、ただ死んでいく。でも生きることを自ら選んだ人はその道を苦痛に感じる、死を想い生を感じながら歩いていく。
その選択は苦しい。だから私は生きるか死ぬかを私ではない別の存在に託す。それは<神>と言われたり<大いなる存在>と呼ばれたりするモノ
絶対いつかは死ぬんだから、今は生きてこの世界を体験しつくそうと思う。
理由もなく消えたいと思う日。私はそんなことを考えています。
理由もなく「消えたい」って頭に浮かぶことがあるけれど、基本的に毎日幸せです
・ヨガクラス(グループレッスン)
・パーソナルクラス(マンツーマン)
・ポイントテーピング講座
・オンラインヨガクラス
・朝ヨガオンライン
Youtubeでヨガとセルフケア紹介しています
LINE@友達追加してくださいね~
ココロとカラダのご機嫌を自然にとれるようになる
京都宇治 小さなヨガ&セルフケア教室 UjiYogaHouse
**JR奈良線沿線・京都宇治・城陽でヨガ教室をお探しの方へ**
女性限定・少人数制・初心者でも安心なヨガクラスです
Facebook⇒ www.facebook.com/ujiyogahouse
Instagram⇒ https://www.instagram.com/ujiyogahouse
Twitter ⇒ https://twitter.com/ujiyogahouse
Youtube ⇒ https://www.youtube.com/channel/UC3WQVHZHjUMj4PHFE_Cl9lg</a